積極的童貞となる

それは、何か?

何らかの目的があり、"敢えて"童貞で生きるという態度のことである。

それは、ストーリーに生きるということである。

妄想に生きるということである。

そして、それは危険な生き方だ。自分がアタックしない口実として、いとも簡単に使えてしまう。実際にアタックすれば、結果と対面しなくてはならなくなる。それは、恐ろしい。それは、怖い。

自分がモテないことの口実としても使えてしまう。オレはプラトニックなのだ。そんな低俗なこと、してたまるかと自分の敗北を認めず、"正しいこと"を持ち出して、正当化することに使えてしまう。

しかし、それは消極的童貞なのである。消極的プラトニックなのである。憎悪のプラトニックなのである。

これは、気をつけなくてはならないことだ。

 

ストーリーに生きる

ここにも、積極性が大事になってくる。本来、自分は変態であるということを隠すために、ストーリーを作ってはならない。そういう人間は、雰囲気がどこかおかしい。そういう人間は会ったその瞬間、ゾッとする。オレが猫カフェにふらっと入ってみたときのことである。ある女性がそこで働いていた。どうやら、猫を可愛がっていた。オレは彼女を見ていて何故かそれを不気味に感じた。彼女は何らかの挫折をした。しかし、それは認めたくない。それは敗北を意味する。そこで、自分が実は憧れて、欲しくてやまないものを否定する価値観を持ち出してきた。それが、弱きもの、この場合は、野良猫やらなんやらを愛するというものであった。可哀想なものを救ってあげる私、愛のある私。世の中はお金じゃないのよ。地位や名誉なんてくだらない。男なんて低俗よ。人間なんて…といった具合である。不気味に感じたことは事実である。その背景が何なのかは完全にオレの妄想である。

ここでオレの母親の話もしたいのだが、あまりにも話が脱線しそうなのでやめよう。

大事なことは、自分がどういう人間であるかを正しく観察して、それを認め、その上で、どういう妄想に生きるのかということである。

性欲はある。大いにある。変な性癖もある。それでも、オレはプラトニックでいくよということなのである。

 

デメリット

とにかく余裕が生まれないだろう。ガツガツしている人は、いい人なんだけど、ちょっと…。となる。ネットワークビジネスをしているすごく綺麗な母親と同じぐらいの年齢の人と出会ったことがある。やたらと、商品を勧めてくる。ネットワークビジネスはウンタラカンタラだけど私は違うのよと、聞いてもないのに自分の正当性を主張してくる。そして、やけに馴れ馴れしく、がっついてくる。馴れ馴れしい人は実のところ嫌いではない。その人自体に悪い印象はない。しかし、ちょっと関わるのはお断りしますなのである。

ふらっとあるお寺に寄った時の話である。そこの人にやたら中に入ることを勧められた。30歳の綺麗な女性であったので入ることにした。

そして、その人もやたらと馴れ馴れしくボディタッチ多めでLINEの交換をしないかとお誘いしてきた。オレは童貞であり、女性に飢えている。しかし、やはり答えはお断りしますなのである。オレはメンヘラ禅野郎なので、宗教それ即ち悪ってわけでもない。ただ、やたらと迫ってくると、童貞であるオレでさえNOなのだ。

そして、今度は整形外科に行った時のこと。そこの人はオレの話をあまり聞かず、とにかく薬、注射、薬なのである。怖くなって2日ぐらいでいくのをやめた。

このようガツガツにはとにかくNOなのだ。

 

余裕を持ちたい、でも

余裕を持つことは無理である。何故かといえばモテないし、童貞であるし、他に出会いもないのではと考えるからである。

だからこそ、開き直るのだ。カッコつけることをやめる。ダサいまま己を突き出す。オレは童貞である。巷に溢れるテクニックをかなぐり捨てて、素直に自分を出すしかない。

それこそが積極的童貞であるということである。定義が最初と変わった気がするが、そんなことはどうだっていいのである。

引きこもりは引きこもりに成りきれ

まずはじめに、今現在つまらなくて、不幸ならば、楽しく生きよう、幸せになろうなどという考えは捨ててください。やってほしいのは不幸を避けるということです。

それ故に"楽しく生きる方法7選"などといったものは見ないでください。確かにいってることは正しいように思うのですが、それでなるほど、はいそーですか→楽しくなりましたー、となるような人がそれを見るのか甚だ疑問です。

とはいえ、楽しく生きる方法を模索するのが悪いかと言われたら、そうではないとも思います。確かに、この人こそは、と思える人に出会えることもあるわけです(物理的に会うという意味でなく)。

そして、多くの人にとって役に立つであろうものとは、僕が思うに、人類が培ってきたものであります。

それは科学であったり、哲学であったり、宗教であったり、人によって好みは様々あるでしょうが、それらをその人なりにミックスして取り入れていく、というのがその人の人生に良い感じに作用するのではないかと考えます。

引きこもりの状態は苦しいです。夢中になれるものがあればそうではないのですが、ない場合は地獄です。

しかし最近、僕はこの地獄での生活も悪くはないものとなっているので、これからその方法について書いていきたいと思います。

 

引きこもりになりきる。

まずはこれです。俺は引きこもりなんだ。俺こそは引きこもりなのだと開き直るような感じです。

人は往々にして、昔はああだっただのと考え、今現在を生きようとしません。そして、そういう人は、現在地が見えておらず、その為に歩き出すことが困難になります。

そもそも、人間には完成というものがありません。いつも途中であって、いつも未熟者であります。しかし同時に常に完成しているとも言えます。植物で例えるならば、種は種で完成しており、芽は芽で完成しており、蕾は蕾で完成しており、花は花、枯れた時ですら完成しているという見方もできるということなのです。

種であれば、種として生きよ、蕾は蕾として生きよということです。満開に咲いた花のみが、いいというわけではないのです。それはつまり、引きこもりは引きこもりとして生きよということでもあります。偉い人のよく言う、過去でも未来でもなく、今を生きろというやつです。

開き直るどころか、引きこもりそのものになってやろうと決意してみてください。

 

本当の、本来の自分という幻想を捨てる。

これもありがちなやつなんじゃないかな〜と思います。意識してるにせよ無意識にせよ、大体の人が持っているであろう考え。

本来は、良い大学に入り、良い会社に就職し、愛する妻を持ち、元気な子供を授かり、etc…だったんだが、いやしかし、親だの環境だのが悪かったせいで…。本当なら今頃、素晴らしい戦士になってたはずなんだけど、ほら、矢がさ。本当の自分はもっと出来るし、性格も良いんだけど、アイツは俺のことを勘違いしてる!とか。

ごめんなさい。そんなものはありません。本当の自分とか本来の自分なんてものは自分がそう見られたい、そうありたいという願望に過ぎません。

ただし、自分に合うもの、好きなもの、合わないもの、嫌いなものという意味での本来の自分であれば、探すのは大アリだし、きっと見つかりもするでしょう。見つかる場所は草むらやあの娘のスカートの中でなく、自分の中でしょうが。

 

地獄こそ俺の住処だと考える。

何も、住所欄に地獄と書け、という話ではありません。元々、俺に居場所などない。ダメで当然だし、苦しくて当然だし、もし何かに失敗したって、本来的にこの地獄が帰る場所なのだと思えれば、肩の力がフッと抜けて、ダメになるのが怖くなくなります。ダメになっても大丈夫であるならば、勇気を持って、行動することが出来るかもしれません。まあ、出来ないから地獄にいるわけですが。これは、そこで出来ることを探せということでもあります。布団から出ることができないのであれば、そこで出来ることを探しだすといった具合です。

 

"ない"ということを活かす。

引きこもり最大の強みとは何か。それは、"ない"ということです。ないことはマイナスだと人は思いますが、意外とプラスの面があります。絵の才能がある人、音楽の才能がある人は羨ましいです。しかし、"分かりやすい才能"がある人は、そこに縛られがちです。仮にそれが上手くいってなくとも、成果が出てなくとも、捨てられないのです。絵描きの人は、描けない描けないとよく悩んでいる人が多いです。そんなに苦しいなら描かなきゃいいじゃない、仕事でもないんだしというそれに対する返答もありがちですが、どうやらそういうわけにもいかないようです。

美男美女。僕はイケメンの人と擦れ違おうものなら、何故か自分が恥ずかしくなります。美女の横を通り過ぎる時も、肩がガッチガチになります。彼ら彼女らはモテるだろうしいいな〜としか思いませんが、年齢を重ねれば重ねるほど、見た目は目減りしていきます。モテなくなっていくことは約束されています。そこに生まれるのは恐ろしいほどの焦りや執着でしょう。それでも美男美女になりたいし、そっちの方が人生は良い感じなんじゃないかなと思いますが、しかし、そうでないならそうでないならではの作戦が必要になってくるというわけです。

"ある"ということの弊害を少し出してみました。"ない"というのはその逆のメリットがあるということでもあります。

執着しなくて済むということです。つまり自由に一番近い場所にいるということです。ただし、なにも工夫しなければ、一番不自由な存在でしょうが。

 

自分は修行僧なんだと考える。

夢中で何かに取り組んでいるなら、それはそれを思いっきりやったらいいと思います。ただもし、そういったものもなく、それどころか何もやる気が起きないという状態であれば、それは問題です。僕は何かに似ているなと思いました。それは修行僧です。ただただ、毎日自分を見つめるということを一人で外にもほとんど出ず、やっているわけです。そう思うと、こういう期間もあっていいんだなと少しばかり思えるのです。また、研究者のようでもあります。毎日こうしたらいいんじゃないかとちまちま調べてはノートに書き、それを見直し、試し、改善しなどやっています。

今の期間は自分を知る為の、自分の扱い方を学ぶ為の大事な時期だと思って過ごしてみてもいいんじゃないでしょうか。

 

これまでのものは、考え方の転換という所に焦点を当ててきました。ただ、やはり人間には身体があり、身体の調子と心の調子は切っても切り離せない関係にあります。そこで、考え方も大事でありますが、実際に"やって"、効果が出るものというのを書いていこうと思います。

 

部屋を最強にする。

これが基本だと思います。それは何故かと聞かれたら、引きこもりは部屋にいる時間の比率がとんでもなく高いからです。それは、自分にとって何が大事なのかを見つめるということでもあります。例えば、エクササイズをしたいと考えるなら、それがすぐ出来る環境を作るといった具合です。ゲームが好きなら、ゲームをいかに楽しめるものとするか、上達出来るようにするのか、いいコンディションでやれるようにするのか。それはなんであってもいいのですが、いや、むしろ、小さい事とかどうでも良さそうなものにこそ、目を向けた方がいいです。

 

ゴミを捨てる。

かなり効果のあるのが、これです。地味ですが、効果は絶大で、ゴミが多ければ多いほど効果を発揮します。ゴミとは、要らないものです。自分にとって不必要なものです。それをどんどん捨てていって下さい。最初は簡単なもの、床に落ちているゴミ、机の上の放ったらかしの食器を。そこから段々難しいものへと挑戦していって下さい。着なくなった服、使いもしない電子機器、使ってない家具…。粗大ゴミとかはハードル高いですが。

あと捨てるとオススメなのは過去の思い出の品です。学生時代のもの、卒業証書、卒業式辺りで渡されるあのランキングとか載っているアレなど、捨てると実際、その頃の思い出とおさらばしやすいと思います。別にいい思い出なら捨てなくていいですが。

 

当たり前のことこそ、こなす。

目の前のゴミを拾う。自分の足元をちょっと雑巾で拭いてみる。小さな小さなことをやって下さい。ちょっと興味のあること、まあ、これならやれるかなってことをとりあえず少しばかりの力を入れてやってみる、やり切ると決めてみる。小さくて、どうでもいいことの方が、大きくて、有意義なものよりいいです。目標の立て方や、習慣作りなどと同じで、みんな大きく、めちゃくちゃハードルを高めてしまい、結局失敗したり挫折してしまいます。これは人間の性なんだと理解して、小さく小さくこれでもか、というほど小さくして下さい。それこそが大変なのですが、それが出来たらこっちのものです。

 

スマホなどを封印する。

人は刺激が大好きです。過去の後悔や、悩み、不安ですら、刺激であり、何もしないことよりもそちらの方を選んでしまいます。

スマホはまさに刺激を無限にくれます。いくら楽しいと思わなかろうが、気分が地の底に落ちていようが、次の記事、次の動画を見てしまいます。

まずは30日…というのはハードルが高すぎるので、意識的に見えない場所、例えば押入れや、別の部屋などに隠しましょう。

触っていない時に、自分にとって大切なことを紙に書きだしてみたりすると、スマホと上手く付き合えるようになっていきます。それは、自分のしたいことのために、スマホを"活用"するようになるからです。

 

皿洗いや、料理は親に奪わせてはいけない。

皿を洗う、料理をする。これほど大事な作業はありません。この大事な行いを奪われるのは、勿体ない。人によっては無理かもしれませんが、可能であれば、自分でやって下さい。意味なんてありません。やるためにやって下さい。これはかなり大事なポイントで、これをしたら、どうなるかというのは大事で、それはそれで考えていただきたいのですが、"やる"というそれ自体がエネルギーを生み出す、そしてまた何かやる、それがまたエネルギーを生み、というサイクルがあることを知ってください。そして、やれることに力を注いでください。何か遠くのものではなく、今現在、やれることにのみちょっと本気でやってみる。これを意識してみてください。

 

記録する。

記録は、力です。現状脱出の様々な方法はありましょうが、やはりそのベースとなるのは記録だと、勝手に思っています。もし、習慣が変えられたら、人生がいい方向に向かうなんてことはすぐに分かります。しかし、これほど難しいことはないです。ただし、これを手助けしてくれるやつがいます。それはノートとペンです。記録すると小さな進歩が分かります。小さな進歩が分かれば、人は幸福を感じます。ノートに関しては本当に様々な使い方があり、自分のパターンを知って、悪い流れに入らないようにしたり、自分の不安を書き出し不安を減らしたり、何が問題なのか、なにが大切なのかを考えたりするのに役に立ったりします。

 

エクササイズ(家事を含む)をする。

不安や憂鬱にはこれ。でも、これが難しい。エクササイズはその人に合ったものがあるだろうから、それを探したらいいと思います。例えば僕の場合、ヨガが合っていると感じていて、楽しいし心地よいので、勝手に出来ます。しかし、外に歩きに出るとかは、冬だと面倒でしょうがなくて基本やりたくないし、走るのとかも合ってないし、筋トレはしちゃいるけど、そこまで好きでもないし、掃除なんて、全然好きじゃない。こればっかりは、その人なりに探していくしかないと思います。ただ、エクササイズがどういう効果があるかということを知ると、やろうと思えてやる気が出ることが多く感じます。因みに脳の機能向上にも一役買ってくれるので、やらない手はないと思います。勿論、健康にもいいですしね。

 

瞑想する。

不安や憂鬱にはこれ第二弾。心理学の不安や憂鬱に関する記事にはめちゃくちゃ登場するこれ。やり方は、姿勢を整え、呼吸に意識を向ける。考えが浮かんでも、それを続けて考えたりせずそのままにしておき、また呼吸に意識を戻すといった感じです。詳しく知りたいなら調べてみるとよくわかると思います。ネット上には1日45分でこういう効果がとか、10分でこういう効果がとか、スタンフォードの自分を変える教室には5分から始めてみましょうなど色々ありますが、自分に合った方法でやるといいと思います。僕は1日1分を1日の目標としています。ただ、1日、20分とか45分することもあります。

 

今度は具体的な方法について見ていきました。これは僕がやってみて効果があっただけであり、特別僕は幸福ではないし、不安や焦りとともに生きています。友人関係、恋愛関係、仕事関係、上手くいっているどころか、悪いです。しかし、それでも絶望もしていないし、人生が良くなっている気さえします。

 

最後に3つの大事な点だけ書いて終わりたいと思います。

  • 目の前のやれることをやる
  • これならやれるかなということをやり切ってみる。
  • 目標は小さな単位で、習慣化したいことは1日の目標をこれでもかというほど小さくする。

今年は6割くらい引きこもり、人間関係において苦しんだ

今年ももう終わるので一年を振り返ってみた。メモやら日記やらを読み返してみると、いっつもコイツ、苦しんでんなということが分かった。幸か不幸か今年はここ10年でほぼ接する機会のなかった他人と接することが多かった。

それ故に、人間関係でどうやら悩んでいることが多いことが分かった。数多く出会ったので、連絡先に父親と母親以外の人も増えたもんだ。

そして、偶に全部消し去りたくなったりもして、実際一度連絡先を消したこともあった。ひどいことをしてしまったな、なんてずっと後悔してきたが、その時の自分の考えを見返してみると、あまりにもそのことに苦しんでいるのでこれはそーなるわなとやけに納得してしまった。ああでもないこうでもないとその時々の人間関係で悩んでいる。そうして思った。クッソどうでもいいことで悩んでんなーと。更に思った。今現在もまた別の人間関係において大いに悩んでいたのだが、それらも実はくっそどうでもいいことなんじゃないかと。

たしかに、どうでも良かった。約束破ったりして嫌われた(多分)のだが、すごくどうでも良かったのだ。その人は嫌いではない。嫌いな奴から嫌われてもどうでもいい、それは納得出来る。しかしその人はいい人どころか素晴らしい人であった。そして悪いのは僕だ。その上で、実にどうでもいいなーと思った。好かれようが嫌われようがどっちでもいいと、そんなふうに思った。

そもそも、自分には一貫性がなかった。会って最初の頃はむしろ認められてたまるかと、影でこそこそと努力して目の前ではテキトーに振る舞うくらいだったのだが、その人物にいいことをしてもらうたびに、嫌われたくないという思いが出来てきてしまった。そうして、媚びるようになってしまった。いい顔をするようになってしまった。結果としてクズ要素高めなのに、いい顔するやつの出来上がりだ。クズはクズとして一貫してたら、それはそれでコイツはこうという点において信頼出来ることもあろうが、表いい顔裏はクソなんて時には、まず信頼なんてされない。その点においてのみ、反省している。

今年中に謝りたいとも思う。気持ちよく、スッキリ新年を迎えたいなんて思っているからだ。でも、許してもらおうとか、好かれようなんて気は一切なくなってしまった。ただただ自分のために、謝る。それ以外はどうぞお好きに。

引きこもりは苦しい

足掻いても足掻いても良くならない。基本的に落ち込んでいるし、偶に気分が良くなったってすぐにそれもなくなる。あまりにそれの繰り返しだもんで、自分が躁鬱になったのかとさえ思う。まあ、苦しい。これは本当に苦しい。

少しなめてたが、いやはや苦しいもんだ。

とはいえ、前よりもうまく生きれるようにはなったか。苦しみ自体に、混乱しなくなったといってもいい。不安や焦りが生じても、それを客観視できるようになったのと、そういう感情が湧いてきた時に、筋トレをするとか決めているから、それらに恐れがなくなった。

もちろん、負の感情は起こる。起こりまくる。それでもやはり、今までより随分と違う。それらが起きてもニュートラルに戻れることが多くなってきた。

大体いつもマイナスから始まる。気持ちよく起きれたことなんてここ最近はほぼほぼない。これは苦しい。前までは目が覚めた時には布団の中で悶々と考え続けるとかつまらないのにYoutubeの動画をみるとか、なーんにもすることがない上に起きれもしないので、自慰行為をして無理やり起きてみたりなんかしていた。最近は目覚めても起きれない場合とかは、自身の呼吸に集中するとか、その時出来る範囲で且つそれが次に良い結果をもたらすことをしている。そして、この変化はどうやら効果があったらしい。起きるのは苦しい。しかし苦しみのループから抜け出すのは出来るようになってきた。

僕にはパターンがあった。苦しくなるパターンだ。これは寝る、ようつべ動画みる、自慰る、風呂に入る、を繰り返す恐怖のループだ。

それに気づけたので対処することにした。もし、自慰りたくなったら、呼吸を意識してみる、筋トレをする。しかし、それでもしたいなら、2回までは筋トレをするが、3回目だったらしてオッケーなど。そして、自慰行為の後、必ず風呂に入るのだが、入る前に外を歩く(深夜)とか、入った時に歯を磨くとか、入った後に筋トレしてみるとか、何かしらのプラスに繋がりそうな行動をする。そうすることによって、無意識的にやってしまうその負のループからほんの少しだけ意識的に飛び出し、プラスの行動を積み上げていくことをしている。

更に、経験から集中や没頭している時こそ、自身が幸福であることに気づいたので、最早、楽しめるものなどほぼほぼない状態ではあるが、音楽を聴く時は音楽に集中するとか、動画を観る時は動画に集中するとか、食事の時は食事に集中するとかそういう些細なことを意識している。勿論、それだけで人生が良くなったりはしないし、楽しくもない。しかし、苦しさのループから抜け出しやすくはなる。

とても効果的なのは夜とか深夜の散歩だ。考え事をしながら歩くのは楽しい。その時の気分にあった音楽を聴きつつ歩くのも面白い。20キロほど歩くこともある。しかし、問題はやり初めが面倒くさいこと。なので、1日にやると決めているのは、玄関で靴を履くということだ。それが出来たらオッケーとしている。

いい習慣や、いい行動が出来るように、部屋の模様替えもしている。これは今のところそんなに効果出てないが、寝る部屋と起きてる時の場所は変えたり、配置変えてみたりしている。

部屋の真ん中にヨガマットがあるのですぐに運動しやすくなった、ぐらいは効果があったと思う。そこまでやってみても、別にそんなに人生楽しくはない。苦しみの方が多いくらいだ。それでも偶に勇気が出てきて、"外"に対してアクション出来ることがごく稀にあったりはしてきたので、まあ、いい感じなのかなとも思わなくもない。

幸福ってつまり

没頭、三昧、フロー、集中、ハマる、これらがあるのとないのとではまるで日々の楽しさは変わってくる。

ぶっちゃけ、引きこもりだろうがなんだろうが何かに没頭したりどハマりしている時には飽きや退屈なんてものとは無縁となる。そして、僕の場合何かにどハマりすると活発になり、外に繰り出す。積極的にもなる。

 

じゃあ、その状態でいればええやんとも思うが、そうもいかないらしい。常に何かに夢中には今のところなれていない。いや、そもそもそんな状態があるのかすら疑問だが。

そういった状態の時は、ちょっとした躁状態みたいになるし、あれはあれで異常な状態だったりするのかもしれない。いや、その状態の時こそがフツーでそれ以外の時が鬱っぽいのか?

まあ、いいや。

 

集中した状態、これは快感である。その後の充実感も半端ないし、是非とも毎日したいものである。目指すのはこれだ。集中。その為にはマルチタスクをやめ、場所と時間はキッチリ分ける必要がありそうだ。もし意図的に出来るのならば日々の充実はとてつもないこととなるだろう。

この集中こそ、正に幸福なんだと思う。

引きこもりなんて辛すぎる

アホみたいに無理ゲーな引きこもり生活

なんだこれは。とてもじゃないが、この引きこもり生活で精神を安定させたまま生活するなんてことは出来やしない。

特に昼が最も焦りや不安の感情が押し寄せてくるようだ。ほんのりとかそんなレベルではなく、ぐわーっとくる。瞑想や軽い筋トレをしてみても、全然消えたりしないんだ。何故昼なのか、それは"ほかのみんな"が働いている、という考えからだろう。みんなは健康的で文化的な生活をして、職があり、エトセトラ…

そんな時にオレは部屋で特にやることもなく嫌なタイプの暇を味わっている。いや、味わってすらいない。未来への不安、過去の後悔、ほかの誰かのことで頭はいっぱいいっぱいで、もはや、いつを生きているのやら。

 

深夜になると打って変わってとても元気になる。外に散歩に出かけるし、歌も歌うし、動画とか楽しく観れる。コレは皆が寝ているからかな、それともオレの特性だろうか。いや、昔はそうじゃなかったし、今でもいる環境によって違うので引きこもりになるとそうなるのかもしれない。

こうなった場合はフツーに深夜を中心に生活するのが最もいいんだろう。

実のところ、この深夜の散歩が結構面白いのだ。変な道を渡り、知らない道を渡る時はスリルがあるし、なんていうか気楽だ。自分の気分に合わせた音楽を聴くのも欠かせない。自分の気持ちを代弁してくれる曲とかそういうのだ。

行動は行動を呼んだりするから、これを次の行動に繋げたい。どんどん良い行いを繋げていく。それでも昼になったら、やることもなくなり、不安になり…

 

理想としては1日の前半は集中して、後半はリラックスとか思い切り遊べたらなんて思うんだけど、それどころじゃあないんだよね。

前半ガッツリいけたら後半も思い切りリラックスできたりするんだろうか。

昼に関しては実に奥深い。この、まったくもってクソな時間帯を良いものとすることは引きこもり状態において可能なんだろうか。

もしかすると昼を制すものは引きこもりを制するのかもしれない。

頑張るのは辛い、頑張らないのも辛い

頑張らなくていい。僕なんかは良くこの言葉を見聞きした。この言葉は僕の大好物であり、自分でよく探しているんだろう。

しかし、僕は頑張りたいのだ。頑張ることは快感だ。頑張れることがあるのは実に清々しくて心地がいい。

しかし、今まで工夫してきたけど、常に頑張ることはできない。自分でやろうということにしても、他人からやらされることにしてもだ。

そして、頑張りの種類によっては自分がボロボロになる。

そこで、僕は頑張らなくていいという言葉を摂取する。信じる。そして、全部投げ出す覚悟を決め、頑張らない。

頑張らない為にやけに頑張る。

 

その次、怠惰の限りを尽くす。するとなんだ、何日かすると、尋常ではない虚無感、何もかもがつまらない。スマホいじりと寝るの往復。今更、Youtubeに本気で楽しいと思える動画なんてありはしないのに。実に不快であるにもかかわらず動画を見るのをやめられない辛さ。

スマホなんて投げ捨てて、運動でもすれば良くなるってわかるんだけど、そうならない。

頑張らないのは、恐ろしく辛いと最近は思う。

やはり、頑張れることがある方が、楽しいと、そう思う。例えそれをする事で自分の未来が目覚ましく良くならなくとも、それ自体に頑張れるのであれば、それはそれとして必要なのだ。

やらざるを得ないと言ってもいい。多少の苦しみ無くして、楽しみなんて感じることは出来ないのだから。

 

つまり、頑張る方がいいとか頑張らない方がいいとか、そういうどうでもいいことにはこだわらなくていいということだ。どちらも必要だし、両極端になる必要はない。

頑張れマンとか、頑張らなくていいマンとか、そんなものは状況や人格、環境によって様々なので好きな時に好きな方を、ってことなんだろう。

とはいえ僕は"頑張れる"、という状況の方が好きだが、そんなにうまくいったりはしてない。