積極的童貞となる

それは、何か?

何らかの目的があり、"敢えて"童貞で生きるという態度のことである。

それは、ストーリーに生きるということである。

妄想に生きるということである。

そして、それは危険な生き方だ。自分がアタックしない口実として、いとも簡単に使えてしまう。実際にアタックすれば、結果と対面しなくてはならなくなる。それは、恐ろしい。それは、怖い。

自分がモテないことの口実としても使えてしまう。オレはプラトニックなのだ。そんな低俗なこと、してたまるかと自分の敗北を認めず、"正しいこと"を持ち出して、正当化することに使えてしまう。

しかし、それは消極的童貞なのである。消極的プラトニックなのである。憎悪のプラトニックなのである。

これは、気をつけなくてはならないことだ。

 

ストーリーに生きる

ここにも、積極性が大事になってくる。本来、自分は変態であるということを隠すために、ストーリーを作ってはならない。そういう人間は、雰囲気がどこかおかしい。そういう人間は会ったその瞬間、ゾッとする。オレが猫カフェにふらっと入ってみたときのことである。ある女性がそこで働いていた。どうやら、猫を可愛がっていた。オレは彼女を見ていて何故かそれを不気味に感じた。彼女は何らかの挫折をした。しかし、それは認めたくない。それは敗北を意味する。そこで、自分が実は憧れて、欲しくてやまないものを否定する価値観を持ち出してきた。それが、弱きもの、この場合は、野良猫やらなんやらを愛するというものであった。可哀想なものを救ってあげる私、愛のある私。世の中はお金じゃないのよ。地位や名誉なんてくだらない。男なんて低俗よ。人間なんて…といった具合である。不気味に感じたことは事実である。その背景が何なのかは完全にオレの妄想である。

ここでオレの母親の話もしたいのだが、あまりにも話が脱線しそうなのでやめよう。

大事なことは、自分がどういう人間であるかを正しく観察して、それを認め、その上で、どういう妄想に生きるのかということである。

性欲はある。大いにある。変な性癖もある。それでも、オレはプラトニックでいくよということなのである。

 

デメリット

とにかく余裕が生まれないだろう。ガツガツしている人は、いい人なんだけど、ちょっと…。となる。ネットワークビジネスをしているすごく綺麗な母親と同じぐらいの年齢の人と出会ったことがある。やたらと、商品を勧めてくる。ネットワークビジネスはウンタラカンタラだけど私は違うのよと、聞いてもないのに自分の正当性を主張してくる。そして、やけに馴れ馴れしく、がっついてくる。馴れ馴れしい人は実のところ嫌いではない。その人自体に悪い印象はない。しかし、ちょっと関わるのはお断りしますなのである。

ふらっとあるお寺に寄った時の話である。そこの人にやたら中に入ることを勧められた。30歳の綺麗な女性であったので入ることにした。

そして、その人もやたらと馴れ馴れしくボディタッチ多めでLINEの交換をしないかとお誘いしてきた。オレは童貞であり、女性に飢えている。しかし、やはり答えはお断りしますなのである。オレはメンヘラ禅野郎なので、宗教それ即ち悪ってわけでもない。ただ、やたらと迫ってくると、童貞であるオレでさえNOなのだ。

そして、今度は整形外科に行った時のこと。そこの人はオレの話をあまり聞かず、とにかく薬、注射、薬なのである。怖くなって2日ぐらいでいくのをやめた。

このようガツガツにはとにかくNOなのだ。

 

余裕を持ちたい、でも

余裕を持つことは無理である。何故かといえばモテないし、童貞であるし、他に出会いもないのではと考えるからである。

だからこそ、開き直るのだ。カッコつけることをやめる。ダサいまま己を突き出す。オレは童貞である。巷に溢れるテクニックをかなぐり捨てて、素直に自分を出すしかない。

それこそが積極的童貞であるということである。定義が最初と変わった気がするが、そんなことはどうだっていいのである。